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金貨

小学生の時 わたしは 当時級友たちの間で

流行っていた 切手集めには目もくれず

古銭集めを おこずかいをためては買ってました

お金を眺め ニマニマするのは 当時からだったんですね

でも すっかり忘れてたこの趣味

子どもでは 到底集められない

つまり 当時の自分から徹底的に

成長したという

勝利宣言をする意味で

ある、古銭を買いたくなりました

それは こないだ 本棚から出てきた

ある本が発端なんですが

塩野七生の「海の都の物語」って本で

古銭とはまるで関係ない歴史ものです

んで、その古銭は これなんですダウン

15世紀のヴェネチア共和国のドゥカート金貨

ほぼ純金です

あんなちっちゃな島が ヨーロッパの経済大国だったんです

街の中心 リアルと橋ふきんは 今でいう ウオールストリート

ヨーロッパ中の金が 集まってたんです

量より 質を選んだ 国だったんですね

ちなみに このヴェネチア当時 ヨーロッパでは

当たり前だった 傭兵ではなく 自国民で武装してました

ヴェネチアの海軍

があって 十字軍も実行出来たくらいですから

その中でも欲しいのが カルロ ゼンという

当時のヴェネチア共和国元首の顔が鋳造されてる

一枚です。

金貨 当時 古銭集めに夢中になっていた

小学生の私には 夢の 通貨金貨

その夢の通貨を手に入れ

子ども時代に完全勝利したくなったんです

その勝利宣言には物語が必要なんで

カルロゼンの一枚を選ぶ必要があったんです

このカルロゼンって元首は 攻めてきたジェノバを

蹴散らし ヴェネチアに栄光をもたらした英雄なんです

国家に権力、人気が集中することを好まなかったこの

国には珍しい人だったんです。

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現在、国際通貨としてよく知られているのはアメリカのドル、EUのユーロでしょうか。

大航海時代(15世紀ごろ)に使われていたお金の単位は、ドゥカートでした。この貨幣単位は、当時の各国で使われていました。

しかし、もっとも有名だったのはヴェネツィア共和国が鋳造したドゥカート金貨だったのです。

現在の通貨と違って、この当時は金本位制でした。つまり、この金貨を溶かして出来る金の量が、その通貨の価値を表しているわけです。

初めて金貨が作られた1284年から共和国滅亡までの500年間、デザイン・金の純度はほとんど変化していません。直径2cm、重さ3.5gのメダルには、表に聖マルコにかしづく(そのとき就任している)元首、裏には聖マルコが星に囲まれている様が刻印されていました。

ちょうど、中国の食器が銀で作られていて、いつでも持ち出せる財産であったのと同じく、質のよい金貨はそれ自体が財産になったのです。

では、このドゥカート金貨はどの程度の価値だったのでしょうか。時代により異なりますので一概には言えませんが、たとえば16世紀半ばにはこのようなデータがあります。

各階級ごとの年収です。

国営造船所の未熟練工は16~20ドゥカート。

ガレー船の漕ぎ手の基本給は20ドゥカート。

手工業職人では50ドゥカート。

国営造船所の技師長や商船の船長は100ドゥカート。

家賃を除けば、15~25あれば一家が暮らしていくのに十分でした。

ちなみに年収1000ドゥカート以上で上流階級とされ、これが人口の約一割。中の上(自営職人や造船所の技師長たち)が100ドゥカート、中の下は50ドゥカートで、これら8割が中産階級の位置を占めていたのです。

もちろんお金持ちはいっぱいいました。

たとえば、イザベッラ・デステ(※1)の一年間の生活費は1万2000ドゥカートでしたし、ルクレッツィア・ボルジア(※2)の持参金は30万ドゥカートだったのです。

(※1)

イザベッラ・デステは16世紀のフェラーラの王女でした。後に16歳のときに、マントヴァのゴンザーガ家に嫁ぐことになります。彼女は美術品の収集家として知られており、ラファエッロ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノなどの画家の作品のコレクターでもありました。

なお、彼女の妹ベアトリーチェ・デステはミラノのスフォルツァ家 イル・モロと結婚しています。

(※2)

法王アレッサンドロ6世(ロドリーゴ)の娘にして、チェザレ・ボルジアの妹。美少女と評判であったが、政略結婚のためにペーザロ伯 ジョバンニ・スフォルツィア、ナポリ王子 アルフォンソ・ダラゴーナ、フェラーラ公 アルフォンソ・デステに嫁ぐ。